SSブログ

修學の四標的

 幸田露伴は、努力論で、修學の四標的として、正、大、精、深を上げています。

人が学問を修め身を治めるためには的が必要である。( 渡部昇一先生の本より、一部青空文庫より、)

 「正」とは《中》である。横道にそれたり偏ったりしないことである。学問の道も同じこと。まず大門があって正門がある。先生は大門をくぐってきた生徒をこの広い平坦な道に導いてくれるはずだ。そして、これをまっすぐに進んでいるうちに、目指すべき目標が見えてくるだろう。そこではじめて、自分の志す方向に向かってその第一歩を踏み出すのである

 「大」には広の意味を含んで居る。学問の道に入ったら自分の能力を自分で見限らず、自らを大きくする心を捨ててはならない。つとめて視野を広げ心境を開拓し、《知》を広くし《識》を豊かにして、《自己の知的拡大の努力》を続けるべきだ。

 「精」の一語は之に反對する粗の一語に對照して、明らかに解し知るべきである。「精」とは、ものの実質がよく、緻密でよく磨かれ、正しく選択され、姿形・組み立てが美しくしっかりしていることをいう。「精」に徹した研究の習慣が身についていたればこそ、これらの大発見につながったのである。

 「深」は大とは其のおもむきが異なつて居るが、これもまた修學の標的とせねばならぬものである。しかし「大」なることだけに努力して「深」を忘れたら、渋滞・拘泥に陥るおそれがある。そして「正」なることにこだわりすぎて「深」の手抜きをすれば、迂闊で奥行きのないものになりがちである。目標を定めたら、どこまでも深く深く掘り進める努力をしなければ、水脈まで到達することはできない。

可能性=限界

 サンボマスターがビリギャル映画の主題歌「可能性」がありまります。何かしようとすると、困難にぶつかります。それをできない理由にすると、可能性の扉が閉じてしまいます。希望を持ち、到達可能なことに取り組むときは、物事は成就します。生きるスタイルによって、可能性にも個人差があります。まだまだ、若い開拓されていない才能を伸ばすときには、奇跡を起こすことが可能です。才能が開花する美しい光景を目にすることがあります。一つの可能性の先にも、次の可能性が控えています。可能性は、どこまで続くのだろうか。

 「私の人生、可能性という明日に向かって、まだこれからよ」(杉村春子)

 執念深くないと、踏み越えられない領域もあります。文学座で「女の一生」947回、「華岡青洲の妻」634回、「欲望という名の電車」594回、「ふるあめりかに袖はぬらさじ」365回、「華々しき一族」309回と主役をこなしました。文学座は分裂したり、 かかわった男はみんな早死にしてしまう恋多き人生でした。無名時代に医者の卵と結婚し、彼が結核で倒れると若い劇作家と恋に陥り、彼がが早逝するとGHQの二世と深い恋仲になり、それが終わると若い医師と結ばれました。

 この場合、「可能性」という言葉は、甘い言葉ではありません。可能性の前に、多くの苦難が出現します。あきらめないものは、全力取り組み、乗り越えることで、新しい世界に入ります。どん底で、物事はうまく立ちいかなくなったとき、それ以上、進めないと思ったときに、そこが限界になってしまいます。そこで、あきらめるか、さらに進むか、分かれ道です。

 「苦難はそれを恐れているとつらいものだ。そして、それに不満ばかり言っていると苦しくなる。そこから逃げようとすると、追いかけてくる。逃げてはいけない。文句を言ってはいけない。恐れてもいけない。それを愛しなさい。苦難の本質を味わいなさい。全力で取り組みなさい。嫌がってはいけません。苦しいのは逃げているからです。それ以外ではありません。」(ヘッセ)


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。