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停滞と新たなスタート

朝の空を見て、晴れていると希望を思い出します。

現実は変化しており、人生では、新しい風が吹きます。
追い風から向かい風に変わります。

目の前に展開していくことが思い描いていたことと異なります。
人生が停滞している時期があります。
ちょっとした失敗が続くと、こんなはずではないと、思います。

人間の感情は想像力から生まれます。
高いところから落下していくことを思うと、胸がしめつけられます。
自分が大切にしていたことがなくなると、心が苦しくなります。
感情に翻弄されて平常心を失います。

夢を信じながらも理不尽なことに出会います。
そこで、本当は何をやりたいのだろうと心に尋ねます。
自分の心の中で開き直り、どんなものでも受け止めることで
心がほっとします。

マイナスなことから目をそらすと、始めたときと同じ情熱を持ち
それまで持続してきた良いことが蓄積していることに気づきます。

心の負担になっていることが大したことでないと思うと、
楽になり、ストレスを手放すことができます。
失ったものへのこだわりを捨てると、
その喪失感を引きづらなくなります。

無駄な想像をやめると、新しい光が見えます。

そして、自分が信じているものをもう一度確認して
前に進むことができます。

「あなたは人を励ますことができる。」


気をつけていても、心の波動を高く保つことは難しいものです。
明るく軽やかな心をもつために、暗いニュース、話題にも、エネルギーを下げる人にも
乱されないようにしたいものです。

良い人、良いものは心地よい波動を発していますので、それを受け取りたいものです。
心地よい波動は、こころを温かくします。

「気持ちがいい」
「いつもいい気持ちでいよう」
「皆をうれしく、楽しく、幸せにしよう」
いつでも、そう思えるようにしたいもので

ある人は言われたそうです。

「あなたがいるだけで周りの人が強くなります。
あなたが強い意志力の波動を持っていれば、
周囲の人はあなたがいるだけで、人は強られます。
一言も言葉を発しなくても、伝わってくるものがあります。
あなたは人を励ますことができます。
その人は攻撃されている、裁かれていると感じることがなく、 
安全で大切にされていると感じるからです。」

心地よい波動の流れに身をおくと、それがさざ波ように伝わっていきます。
世の中には、やさしい言葉、やさしい行いが溢れています。

ラクして稼ぐ

 Wayne Dyer  自分を縛るものを捨てなさい。
 
 厄介なルール、習慣、こだわり、「そうすべきだ」、「ねばならない」、「こうでなきゃいけない」と、いったものを捨て去り、シンプルな生活を。

 お金を稼ぐことは難しい。商売のセンスがあれば、何が売れるかを知り、商品を開発できます。もし、商売のセンスもなく、商売を始めたら、お客様に商品の魅力をアピールできずに、赤字になる可能性が大きくなります。ラクして稼ぐことは、何らかの商売に従事しても、難しい。今、ある程度の売り上げをあげていたら、「ラクして稼ぐ」ことは挑戦可能な課題となります。誰でも、「ラクして△△する」ことならば、適応できることが身の周りにあります。商売に関係のないことにお金をかけないで、無駄な出費をかけない。
 
 「ラクして△△する」。非道徳的な響きがします。しかし、周囲を見れば、努力している割に生産性が低い人がいます。気の毒で胸が一番痛みます。手足が縄で縛られているわけでなく、思考が思い込みで縛れています。

 不向きなことに力を注いで、それまでの無駄な努力は無意味だと知ると、心が痛みます。努力しているのに、報われないことがあります。それは正しいやりかたをしているだろうか。手間と時間をかけすぎて、不要な書類を作成します。時間を短くする。書類を減らす。やっていることを見直ししましょう。モノだって同じです。仮に、50%は要らないものとして、それを捨てると、空間もすっきりします。余計なことをしない。

 努力しているのに成果がでないとき、間違った方向の努力をしていることはないだろうか?やらなくていいことや余計なことを一所懸命にやっています。自分が頑張っていると思っていることは、本来、やるべきことでないかもしれません。仕事のやり方で無駄なことを省いて整理すると、やりやすくなり、仕事の効率が上がります。

徳の条件:思慮深さ

 思慮深さとは見通しのきかない未来にかかわる徳であり、好機をとらえる徳、忍耐と予見のとくである。

 思慮とは人間に対して何が大切で何が大切でないかを考慮して、結果的にその場にふさわしい行為を可能とする性質である。思慮には、起こることだけなく、起こるかもしれないことも扱い、未来を予想・予測することが求めれます。

 『職業としての政治』においてマックス・ヴェーバーが異なる2つの倫理観にもとづく人間の行為の類型を提唱した。心情倫理と責任倫理で、前者は、自らの行為の価値を純粋に信じて、その結果は神に委ねて省みない態度であり、後者は、予測できる限りで自らの行為の結果を考慮し、その責任を引き受けなければならない、という態度である。善意が災いを起こし、動機が純粋であれば、最悪の事態をさけられないので、心情倫理は危ういので、責任倫理でその責任を引き受けることが求められる。

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