SSブログ

神学の徳(希望、慈愛、信仰):ラファエロ

raphael_seggiola00.jpg
小椅子の聖母 (Madonna della Seggiola)

神学の徳(希望、慈愛、信仰)

 言葉、心、行動は、関連しあっています。日々の生活で希望、慈愛、信仰に溢れる言葉、心、行動に触れることができるならば、豊かで恵まれた気分になります。ある一瞬、それに触れたと思っていても、それを新鮮に感じ続できる人は少ないものです。

Raphael Renaissance
http://www.youtube.com/watch?v=Ej562XnH0xg&feature=related


 ラファエロは、イタリアのウルビーノ地区に生まれました。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並ぶ、最盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家です。レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロとはやや歳が離れており、この二人や師ペルジーノから多くを学び、それまでの芸術手法を統合、洗練し、優雅な様式を確立した、総合芸術の天才です。

 ペルージアでの修行時代から画家として素晴らしい才能の誉れが高く、若くして独立し芸術の都フィレンツェに滞在して充実生活を送り、25歳でローマに移り、教皇ユリウス2世の庇護をうけ、ヴァチカンの宮廷画家として栄華を極めました。 調和された世界を最良とするルネサンス芸術を完成させた存在として、その資質は死後も賞賛され、模倣されました。 彼はその繊細な美しい描写で聖母を描いたことから、「聖母の画家」とも呼ばれております。宗教が強い力を持っていた時代に「神(永遠なるもの)」を描くことによって、時代を越えた作品を残しています。
 ラファエロの作品では、小椅子の聖母 (Madonna della Seggiola) 1514年が愛されている作品の一つです。微笑みを浮かべながらこちらを視線を向けている聖母子像を描いたトンド(円形画)で、美しく豪華な額縁で縁どられています。若い聖母マリアが幼子イエスを抱えながら、その傍らに洗礼者幼児ヨハネを配置しています。

  ラファエロは、ローマのヴァチカン美術館の署名の間を創作を担当し、そこには、数多くの弟子とともに作品を残しています。その壁を飾る作品に「神学の徳」‘希望’‘慈愛’‘信仰’があります。 信仰、希望、慈善の3つの神学の徳は、キリスト教の道徳的な活動の基盤であり、それが、キリスト教の道徳的な活動に命を与えます。 ラファエロの生きた時代でも、今でも、不確かな人生において、よりよいもの、よりどくろとなるもの求めて生きています。精神的な内面について、深く考えながら、信と望と愛の中心となる神について知ることで、人間が持っている可能性を気付くことができます。空気が澄んだ冬の夜空には、☆が輝いて、神秘的な美しさ、静けさを湛えています。我々の心に、信と望と愛の三つの光が貫いていないと、人生は輝き、命がないものと同じです。信と望と愛の三つの光で、我々の人生を照らすことは課題です。

ラファエロ.jpg

「神学の徳」(希望、慈愛、信仰)ラファエロ 1507年  

LoveFaithHopeCharity.jpg

Stanford University Memorial Church

 上の写真は、スタンフォード大のメモリアルチャーチの入り口を飾る4つの言葉です。Loveが加わっています。少し、聖書を通じて、信仰、希望、慈善のキリスト教の考え方について考えてみます。愛には、ものごとを育む力があります。いろんな愛があると、思いますが、ここで、「神への愛」(主なるあなたの神を愛せよ)、「自分への愛」(自分を愛するように)、「隣人への愛」(あなたの隣り人を愛せよ)は、「信仰」「希望」「慈愛」の3つの徳に対応しています。

 「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ。」(マルコ12章30-31節)

 「信仰」は神との関係、「希望」は自分との関係、「慈愛」は隣人との関係を表しています。

  信仰によって、私たちは神を信じ、神との関係を知ります。また、彼が言ったこと、私たちに明らかにしたことをすべて信じます。信仰によって"人間は自由に彼の自己全体を神に捧げます。このような理由から、信者は神の意志を知ろうと求め、それを行います。希望によっては、我々が望み、希望に値するために神、永遠の命、慈愛を期待しています。慈善によって、神の愛のために私たちは、何にもまして神を愛し、自分自身のように隣人を愛します。慈善、すべての美徳の形は、完璧に調和してすべてを一緒に結合します。何にもまして、慈善を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
 
 信仰に生きた人、内村鑑三は、次のように表現しています。

「 三条の金の線が、聖書をその始めから終りまで貫いています。それは、信と望と愛とです。コリント前書13章の13節です「それ信仰と望と愛と此三つの者は、常に在るなり」と書いてあります。これを称して、キリスト教の三徳と言います。この三つの者は美徳の姉妹であって、そのいずれが他よりも優れて、最も麗しいかは、誰にも見分けることができません。」

 キリスト教的な愛は、難しいものです。そこに到達するまでに、自己愛(エゴ)などの乗り越えなければならない壁も大きいようです。自分の心が満たされても、他人のことまで、なかなか、視野、に入りません。ひとりで寂しい思いをしている人にとっては、荒涼とした時代を共に歩み、分かち合うパートナーが必要です。安心してよりかかれる存在がいて、そっと包み込んでもらえることを望んでいます。手が届きそうにもない高尚な愛よりも、自分の寂しさ、孤独感をいやす、心が安らぐ愛を手にいれることが最優先です。人間の心の孤独なスペースを満たしてくれるものを、求めています。


 愛について書かれた言葉よりも、具体的なものがないと、人間の心は満足できません。我々の生活は、日常的な生活の面と精神的な面とがあり、両方を追求することは難しいようです。多くの人が恋愛の奇跡、魔法の力を一部発揮して心が満たされる最良の経験をします。愛への期待は高く、それまでの不満を一掃して、現実の生活に至福をもたらすものであってほしいと思います。恋愛は、より高い次元への梯子ですが、人は、精神的な世界に突き進みません。恋愛にとどまり、その先にある完全に隠された愛の力を理解し、使用した人は未だ少ないようです。そこでは、愛の使い方をマスターすると、広大無辺の宇宙のソース(Infinite Supply)に繋がるり、望んだことが現実化します。その秘密のコードを解読した人はいますが、自由に使えるようになった人は少ないようです。

“My mind is a center of Divine operation. The Divine operation is always for expansion and fuller expression, and this means the production of something beyond what has gone before, something entirely new, not included in the past experience, though proceeding out of it by an orderly sequence or growth.”

glass_half_full.jpg

 心は、いれるものによって、変化自在にかわるものです。「私の心は、神の働きの中心である。神の働きは拡大と表現を求めてやまない。それは、いまだかってなかったものを生み出す。過去の経験から出てくるにしても、そこに含まれない新しい何かを」もし、信と望と愛の徳を積んで、私たちを通して、宇宙の創造力を発揮すれば、思い描いた人生を送ることができます。信と望と愛の徳を積むには、自分のことのように、他の人も敬意をもって大切にすることができないといけません。

 世のなかが不安定であり、自分で生きるだけで大変な時代です。恋愛とは、対象も具体的ではつきりしていますが、愛になると、抽象的でイメージが湧きにくいものです。人間は、自己の愛が満たされる居心地良い人間関係があれば、高望みをしません。しかし、不確かな人生において、よりよいもの、よりどくろとなるもの求めて生きていけば、実生活の経験を通して、われわれは、愛について、学ぶことができます。自分の中心の生き方をしながらも、精神的な代償を支払って、気付けば、精神的な高みにジャンプしていることになっています。螺旋階段をのぼりながら、人生の季節での出会い、恋愛、純愛で彩られたいろんな現実の生活で胸の痛みを経験して、考えていくものかもしれません。
 
  若いときの恋愛気分は、心を有頂天にします。心は掴みどころなく、気分でかわりやすく、身勝手でいろんな思いで揺れています。付き合う相手は自分の心をうつす鏡です。恋愛に心が魅了されると、高い期待値で、多くを求めるようになります。自己中心の恋愛は、魂を磨く機会を与えてくれます。その反動と精神的な代償は大きいものです。人を愛しても、他人に多くを求めると、不足している点に目がいって、他人を非難してしまいます。恋愛気分を永遠に保持できずに、それから覚めると、物足りなさを感じます。自分の思うようにならない相手にいら立ちます。他人を変えたいという不満の気持ちが自然に心の中で頭をもたげてきます。人と人とがぶつかりあう側面があります。自己中心の恋愛では、反動で、ねたんだり、自慢したり、高ぶったり、いらだったり、恨みをいだいたりすることもあります。他の人ことまで思いやる余裕はありませんので、心痛などのいろんな経験を積むことになります。そして、人間は成長していきます。変えるべきは、相手でなく、自分の内面です。自制心、寛容な心、謙虚な心、静かな心を学び、人生経験を積んでいくと、自己中心の愛から他人のことも考える慈愛に転化していきます。落ち着いた愛というのは、「信」、「望」=「辛抱」という意味かもしれません。

 支え合う人と人との間で、いろんなギブアンドテイクがあります。「ギブアンドテイク」という観点からみると、収支を考えて、与え過ぎないように、損しないようにします。選択と妥協の達人であり、自分の理想の人の条件のリストがいっぱいあっても、現実に合わせて柔軟に妥協できます。自己中心的で打算的な資本主義経済的な生活は、精神的な生活とは相反する性格のものです。制限つきの愛さえあれば、なんとかやっていけます。愛も、近ごろ、コモディティ化しているように思います。コモディティは生活を満たす「日用品」という意味です。婚活という言葉があるように、生活レベルの面でも、恋愛に対する欲求は高く、なかなか手に入らない状態です。


 <コロサイ書1章3節>
  わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神に感謝している。
これは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対していだいているあなたがたの愛とを、耳にしたからである。この愛は、あなたがたのために天にたくわえられている望みに基くものであり、その望みについては、あなたがたはすでに、あなたがたのところまで伝えられた福音の真理の言葉によって聞いている。

 信は望を生み、望は愛を生じるとは、この数節において示された信仰的生涯の順序です。このように、聖書の何処を読んでも、私達は信、望、愛の三姉妹に出会います。」

 新約聖書コリント使徒への手紙第十三章にも、 信仰、希望、慈愛の大切について語っています。我々に欠けていることを、反省すべきことを、指摘してくれているのかもしれません。

<愛がなければ>
13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

<愛とは>
13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

13:8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
13:9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
13:10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
13:11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。