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若者と夢への挑戦(デイモン スピルバーグ)

          ベン・アフレック&マット・デイモン
 無名の若者が脚本を書いて、友達と共にアカデミー脚本賞を受賞しました。10才のとき、マット・デイモンは2ブロック離れて住むベン・アフレックと腐れ縁の友達になりました。彼らは、一緒に野球をし、安い2本立ての映画を見て、同じ高校に通いました。ふたりとも、役者になることに興味を持ち、その頃フェンウェイパークであったフィールドオロブドリームの数シーンの端役に出ます。デイモンは、アメリカンレパートリーシアター劇場やボストン劇場会場で幾つかの演劇の出ました。演劇の夢を追求するために、ベンとマットは、ニューヨークに行きます。
 マットは、ボストンにもどり、ハーバード学生に進み演劇を学びます。そこで、端役で映画やテレビに出始めました。無名時代、シナリオ製作の授業用に書いた若き数学の天才に関する40ページの戯曲を書き、幼馴染のベン・アフレックに見せたことから共に自分達で脚本を書くことを思いたち、映画用の脚本として完成させます。2年を経て完成した第一稿を映画プロデューサーのクリス・ムーアが絶賛したことからキャッスル・ロック・エンターテインメントが映画化権を取得した。しかし、一向に映画化は実現せず歳月は流れた。
 ところが、アフレックが自身の出演した映画『チェンシング・エイミー』の監督であるケヴィン・スミスとプロデューサーのスコット・モスィエに脚本を見せたところ、スミスとモスィエも好感を抱いた。知人を介して脚本に目を通したハーヴェイ・ワインスタインとジョナサン・ゴードンは映画化を即決。その脚本が後の1997年、『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』として映画化され、1998年公開され、無名の俳優が執筆した脚本と完成度の高さに注目が集まり、ベン・アフレックと共にアカデミー脚本賞を受賞している。同作品ではアカデミー主演男優賞にもノミネートされた。この脚本の映画化には、ベンに見せた1992年から完成の1997年まで、長い年月と紆余曲折を要した
               
                スティーヴン・スピルバーグ
 スティーヴン・スピルバーグは、情熱で将来を引き寄せた見本である。12歳で8ミリの短編を撮り、14歳で40分の戦争映画を作った。17歳の時にユニバーサル・スタジオツアーに参加しました。そこで、巨匠とよばる監督ジョン・フォードと出会うことになる。スピルバーグは、ジョン・フォードについて語っている。「彼は映画と共に永遠に生きる 彼が残した数々の作品は 新たな映画の作り手に 着想をくれる」。映画の製作ばかりしていたスピルバーグは成績があまりよくなく、UCLA、南カリフォルニア大学を受験したが、不合格して、結局、1965年からカリフォルニア州立大学ロングビーチ校にて映画を専攻する。
 学生時代、ユニバーサルスタジオの見学ツアーで参加中、逃げ出して撮影現場を見学、その際偶然会った資料主任に3日間のパスをもらう。パスが切れた4日目からは顔なじみになった守衛に手を振って挨拶をしてごまかして数ヶ月間潜入しつづける。大学に通う一方で休みになるとユニバーサルへ潜り込むようになり、ついには空き部屋だった掃除小屋を自分のオフィスとして使用してユニバーサルに居候を始め、ハリウッドを出入りするようになる。
 その後、21歳のときに、オープニングタイトルとオプチカル効果の会社を経営しているデニス・ホフマンと知り合い、映画製作資金を提供してもらうこととなり、最初の作品「アンブリン」を完成させる。この映画がユニバーサルテレビ部門の責任者シドニー・シャインバーグ(後MCA社の会長)の目に止まり、ユニバーサルと7年契約することとなる。

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