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教育大国への道(中国、ドイツ)


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 愛国の王妃 ルイーゼ(1776-1810) 


                        教育大国への道

 教育は、未来を支える柱です。

 豊かさを考えるときに、今、手にしているものよりも、これから手にしていくものが大切です。教育は、未来に向けた投資です。種を蒔いて、水と養分と光を吸収して、若葉から日々に成長していくことで、美しい花を咲かせて、豊かな実りをもたらします。両親が恵まれていて、お金を自分で稼がなくてもに不自由しないでいる学生もいますし、貧しく自分で小遣いを稼がないといけない学生もいます。貧しいことは、豊かさへの切符を手にしていますと、自分で稼いで勉強できると、将来、つらいことがあっても、乗り越える精神的強さがあります。目覚めよ、日本と言いたいところです。
 学生として、勉強が最も大切な将来への投資ですので、勉強して将来に備えるならば、貧しくてもハンディにはなりません。仮説として、適切かどうか、分かりませんが、貧しく勉強に熱心で未来志向の中国人と、豊かでそこそこ勉強して現状維持の日本人と比べると、日本も若者も、脱ゆとりで、今が頑張りどころです。
 
 経済協力開発機構(OECD)は7日、65カ国・地域の15歳約47万人が2009年参加した「生徒の学習到達度調査」(PISA)の第4回実施結果を公表しました。OECDの経済協力パートナーとして同調査に参加した中国・上海は、読解・数学・科学の3科目すべてで1位となった。注目すべきなのは、教育大国として浮上した中国は、 教育力が向上して、経済、国力の増強で今後とも、伸びていく可能性があります。中国は、国際化を目指して、英語にも力を入れています。上昇気流に乗っている国の勢いがあります。
 
 ゆとり教育から巻き返し、日本は成功しているでしょうか?文章やグラフの内容を読み取る読解力で日本の高校1年生は8位となり、前回06年調査(57カ国・地域参加)の15位から上がっています。朝、小学校で本を読むことを行っており、地道な努力は、それなりに身を結ぶものです。科学的応用力は6位から5位、数学的応用力も10位から9位となり、実施3分野全てで上昇。数学・科学の応用力でトップクラスだった00年の調査開始後、03年、06年と続いた学力低下に歯止めがかかり、改善傾向を示しています。

 教育レベルや国力の飛躍の例として、19世紀のドイツについて言及する必要があります。プロイセンは、18世紀後半に登場したフリードリッヒ2世(在位1740-1780)によって「上からの近代化」を推し進めした。「一般地方学事通則」は、世界最初の初等教育令で、その内容は軍事・経済的要請に基づいた、王に対する忠誠心と愛国心をもつ臣民を育成するプログラムでありました。具体的には、読み・書き・算といった3R'sと、キリスト教道徳を注入・教化する人材育成が実践されていました。

 プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のときに、1806年にプロイセン軍はフランスへ宣戦布告しますが、ナポレオン率いるフランス軍に敗れてしまいます。フィヒテ(J.G.Fichte: 1762-1814)は、ナポレオン軍占領下のベルリンで、『ドイツ国民に告ぐ』という愛国的な連続講演を行う。国民教育により、ドイツを文化的な側面から統一することの必要性を唱えます。1807年7月にティルジット条約で、ヴェストファーレン王国とワルシャワ公国が置かれ、プロイセンは国土の半分を奪われ、1億4300万フランの賠償金、保有戦力4万3000への制限が課せられます。しかしプロイセン王妃ルイーゼがナポレオンと毅然と交渉を行い、プロイセンの国民から大いに支持を集めした。国土と軍事力を大幅に削減されるとシュタイン、ハルデンベルク、シャルンホルスト、ブリュヒャーといった愛国者たちが中心となって、軍事や社会の改革に当たりました。

 フンボルトは、ナポレオン軍に大敗後の荒廃状態のなか、プロイセンの精神的な権威の復興のために、内務省の宗教・公教育局局長として1810年に世界最初の現代型の大学として名高いベルリン大学を創設した。彼は、言語学者として言語と個人を社会を結合させるもの、国語を国民性が表現されたもの、人間性を心身諸能力が美的に調和されたものとみなし、人間性の実現が人間の内的欲求の充足であると考えた。

 ドイツにおける公教育制度は、武力によってドイツを統一したビスマルク(O.v. Bismarck, 1815-1898)の時代になって成立する。1872年に「学校監督法」が成立したことにより学校と教会が分離することになり、学校を教会(宗教)勢力ではなく、国家(公権力)の監督下に置くことになる。同年の「一般諸規定」により、民衆学校の制度と教育課程も整備された。

 1825年には教育を国民の義務と規定し、子女を学校に通わせない保護者には罰金を科した。これにより、1870年には小学校の就学率が97.5%に達した。教育によって力を培ったプロイセンは1871年、数十の領邦に分裂していたドイツを統一し、その後も教育重視の政策を推し進め、ミュンヘン工科大(1868年)、アーヘン工科大(1870年)、ドレスデン工科大(1875年)などの名門科学技術大学を相次いで設立しました。

 ドイツは20世紀初め、英国を抜いて欧州一の産業国家となります。合成染料は英国の科学者が1868年に発明したものだが、これを産業化し、全世界の生産量の8割を供給したのはドイツだった。当時、衣類や子どもの玩具、絵本、台所用品、排水管、ラジオなど、英国人が使用するすべての物品がドイツ製といっても過言ではなかった。1851年にロンドンで第1回万国博覧会を開催し、最先端の科学技術を世界にアピールした英国は、20世紀に入ると、ドイツに産業技術の研修生を派遣するなど、産業面でドイツの後を追うようになった。

 19世紀後半から20世紀初頭の時点でみる限り、各専門分野での研究の方法論を専門的に教える大学は、ほとんどドイツだけに限られていた。だから世界各地の研究志願者がドイツの大学に留学した。渡辺 実の研究によると、明治8(1875)年から同45(1912)年まで、日本が派遣した文部省留学生総数683名のうち、八割がドイツに留学している。ただし、これは日本に限ったことではなく、アメリカでは、19世紀中に9000名の者がドイツの大学で学んだとされている。こうしたアメリカ人留学生が帰国後、アメリカの大学改革の中心的な原動力となったことは、すでにさまざまな研究で明らかにされている。そのなかで、大学院という、その当時、世界中どこにも存在しない仕組みが作り出され、そこを拠点として「研究を通じての教育」という方式が導入され、それがアメリカの大学と学問の水準を引き上げた。


< 愛国の王妃 プロセイン>
 プロイセン中の愛国者達の尊敬を集め、ルイーゼは大敗に苦しむプロイセンの崩壊を寸前で食い止めたとして評価された。ナポレオン軍の勢いに、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は負けてしまい、王妃はナポレオンとの交渉で、出来る限りのことをしようとします。
 当時国民に愛国の王妃として絶大な人気と尊敬を集めていたルイーゼをフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は説得し、プロイセンとの講和条件を緩めてくれることを期待した。ルイーゼはこの交渉においては、不屈で粘り強く毅然とした態度を見せた。しかし、結局彼の決定は覆らなかった。ただしナポレオン1世はこの交渉でのルイーゼの態度には深い感銘を受け、「美しき敵対者」などと評した。ルイーゼは1810年7月19日に肺炎で死去した。彼女の死を、プロイセン国民は大いに嘆いたという。

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