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1868年

1968年 日本は明治元年で、大きく時代が変わった年です。

 ヴィクトリア朝時代を代表する偉大な政治家が、保守党のディズレーリと自由党のグラッドストンが活躍した時代で、1この二人の政治家のもとで、保守党と自由党による典型的な二大政党制が発展した。
 グラッドストンは、第2回選挙法改正後に行われた1868年の総選挙では自由党が勝利し、第1次グラッドストン内閣(1868~74)が成立した。グラッドストンは、主に内政問題に力を注ぎ、1870年には教育法を制定して宗派に関係ない公立学校を増設し、翌1871年には労働組合法を制定して労働組合運動を合法化した。さらに1884年には第3回選挙法改正を行い、農業労働者及び鉱山労働者に選挙権を与え、これによって有権者は約500万人(成年男子約700万人中)となった。

アメリカは西部開拓とインディアン戦争の時代です。
 1868年に北部アラスカをロシア帝国から安値で購入した。東海岸や五大湖地方の工業地帯が急速に発展して、鉄道建設は1869年に大陸横断鉄道が完成し、ピークを迎えた。西部の人口はさらに増加し、急速に生活圏を奪われたインディアンは、1860年代から1870年代にかけて、各部族による一斉蜂起を行った。これがインディアン戦争であり、米軍との間で20年以上の争いとなった。結局、蜂起は次々に鎮圧されてゆき、ナバホ族のように領土を一時完全に没収されるか(ロング・ウォーク)、保留地へ幽閉された。指導者は戦いで死ぬか毒殺されるかして部族のコミュニティも壊滅させられ、人口も減少していった。さらにドーズ法はインディアンの社会を根本から破壊し、彼らの土地のほとんどを白人農業者のものとした。1871年、合衆国政府は「合衆国はもうインディアン部族を独立国家とはみなさない。したがって今後はもう主権条約は結ばない」と宣言した。。

 中国は、清の10代皇帝同治帝のころ、母は西太后である。同治3年(1864年)に14年にわたった太平天国の乱がようやく終結した。しかし乱を終結させたのは漢人の曽国藩・李鴻章らの個人の軍である湘軍・淮軍である。西太后に信任された李鴻章により、政治と軍隊の洋化が進められ、対外政策にも柔軟な対応を見せた(洋務運動)。この時期に僅かながら清の国勢は復活し、同治中興と呼ばれる事もある。

 プロイセン国王ヴィルヘルム1世(位1861-88)の時代で、ビスマルクが首相(任1862-90)として、鉄血政策により軍備を強化し、1866年に起こったプロイセン王国とオーストリア帝国との戦争で、プロセインが勝利でドイツ統一にむけて動きだした。1868年のスペイン革命によってイザベラ女王が退位し、空位となっていたスペイン王位に、プロイセン王家(ホーエンツォレルン家)支流の王子レオポルトが立候補し、フランスが反対していました。これをうまく利用して、ビスマルクがナポレオン3世を挑発して、普仏戦争普仏戦争が勃発した。1868年、バイエルン王ルートヴィヒ2世によりミュンヘン工科大学が創立されました。
 


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