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金持ち息子の人生勉強

 遊びは、人間の心に楽しみを与えてくれす。とことん遊んだ人は、人間味があります。従来の価値観から外れて、自由に物事を見ることができます。親(権威)に反抗することで、新しい生き方を見つけます。人間として大切なことを学びます。人間的な魅力は、いろんな人を包み込む力があります。人間は、型にはまると、融通がきかなくなり、常識に捉われて見動きできなくなります。従来の価値に拘束されない天衣無縫の生き方が大切となります。人がやらないことをすることにも目を向けましょう。

 ○トーマス・ジョン・ワトソン・ジュニアは、コンピュータメーカーIBM社の2代目社長になった人です。父トーマス・ワトソンの跡取り息子としてIBMを父から米最大手の事務機器メーカーを引き継き、世界的なコンピュータ会社に大きくしました。
 ブラウン大学に入学。大学時代は友人達と飲酒して騒いだり、飛行機の操縦に夢中になったりで成績は振るいませんでしたが、試験前には懸命に勉強し何とか卒業にこぎつけます。 マジメに学業に励むことはなく、試験前の付け焼き刃でなんとか卒業しました。将来像が明確でないまま、あまり気乗りしない状態でIBM社への就職を決めました。IBMセールス・スクールでの研修を経て営業活動を開始したものの、社長である父親なります。やがて飛行機乗りたさから、第二次世界大戦にアメリカ合衆国が参戦するのに便乗して陸軍パイロットとしての訓練に生活をシフトさせていく。 IBMは朝鮮戦争を契機に、軍に納入するためのコンピュータ開発に巨費を投じます。1952年の社長就任、1956年のCEO就任及び同年の父ワトソン・シニアの死去に伴い全面的に経営の指揮を執り始めます。1960年代には社運を賭けた汎用コンピュータ、System/360の開発に着手し、成功させます。

 ○CNNの創始者テッド・ターナーは、父親は終戦後、屋外広告の会社を設立しました。するとその会社はアメリカ経済の好調の波に乗って急成長を遂げました。彼の父親は、経済的にも社会的にも成功をつかんだですが、躁うつ病で不幸な少年時代を過ごします。妹の不幸な死もあり、学校にまともに通わなくなった彼を躾けるため、父親は彼を軍隊式の厳しい士官学校に入学させました。反発しながらも、そこを無事に卒業した彼はその後ブラウン大学に進学、そこで父親が好きだったヨット・レースと出会い、選手として活躍することになりました。しかし、相変わらず反抗的な生活を続ける彼は校則違反を繰り返し、ついに大学を退学させられてしまいます。

 父の死後、彼は会社を引き継ぎ、彼は、屋外広告という古い業界に将来性はないと感じていた彼はテレビ業界に進出することを考え、つぶれかかっていたUHF局を買収します。それまでに父親が蓄えていた資金を使い、他局の番組を買い取り、さらには大リーグの弱小チーム、アトランタ・ブレーブスを買収。放映するプログラムを増やすことで少しずつ視聴率を上げてゆきました。続いて彼はさらなるメディア業界の展開の場として衛星を使った中継放送や番組の制作を思い立ちます。こうして彼は衛星を使う権利を取得し全米のケーブル・テレビ局に番組を配信するビジネスを立ち上げます。これをベースにビジネスを立ち上げて、CNNとなりました

 ○マキノ正幸さんも、贅沢三昧の生活から挫折し、あたらしくはじめて成功しました。
 祖父は日本映画の父である牧野省三。父は映画監督であるマキノ雅弘。母は宝塚歌劇団卒業生で映画女優の轟夕起子。大学を卒業すると同時に従兄の長門裕之とプロダクション(人間プロ)を設立し、たった一年でクビになり(僕の遊び過ぎ)、その年のうちに六本木に“MAC’S HALL”というメンバーシップジャズクラブを開店しました。
 そこでプロデュースしたジャズピアニストの世良譲と、ジャズシンガーの笠井紀美子が売れに売れて、何の苦労もなく成り上がり、もうけた全てで競走馬を買い、調子に乗って手を出した福島県のスキー場で大挫折をしました。本州を飛び出し、1983年に沖縄で沖縄アクターズスクールを設立しました。それからの成功は安室奈美恵、SPEED、知念里奈の活躍で誰も知っています。

 ○早川 種三さんは、経営不振の会社再建の神様とよばれます。お父さんは早川組を設立し、東北地方や北海道の土建事業で財を成し、後に1903年(明治36年)仙台市長を務めた方です。
 彼は、父に電報を打ちました。「金送れ、送らねば死ぬ」 故郷の父からの返電は、「金は送れぬ、死ね」といわれたそうです。彼は、慶応大学に入学するも、慶大を5回落第し、卒業するのに10年もかかりました。20歳の時に父が財産分けしてくれた30万円(今の2、3億円に相当)を10年間で茶屋遊びをはじめとする放蕩生活で遺産を蕩尽したそうです。

 大正14年(1925年)慶大卒業後、登山仲間とともにペンキ屋「紀屋(きや)」を起業するが、昭和5年(1930年)年末に得意先の東京建鐵が経営不振に陥り経営陣に迎えられます。これを契機に、企業再建請負人としてのキャリアをスタートしてました。 

 私が再建する企業へ単身乗り込んでいった当初は、「首切り屋」「整理の鬼」と敵視していた社員たちも「再建は私のためにやるのではない。みんなのためにやるのだ。とにかく一緒に働いて、この苦境を乗り切ろう」と繰り返す私の話に耳を貸すようになり、やがてやる気を出してくれるようになりました。

 恕という言葉があります。顔淵は孔子に一生守らなくてははらないのは何かを尋ねたところ、「それは恕か。おのれの欲せざるところ、人に施すことなかれ」と云われたそうです。それは、他人を思いやる心です。早川 さんは、問題を発見させて、相手の自主性を大切にしました。お金を気持ちよく使う贅沢三昧の生活にも、良い面はあります?駄目になる人は多いですが、若い時にいろいろあっても、長い人生、いつからでも、やり直せます。高い授業料を払って、人生勉強できます。

○白洲次郎さんは、百八十センチを超す長身、端正な顔立ち、英国流の洗練された身ごなし、プリンシプル(原則)を大切にしたジェントルンマンです。父親は綿花貿易で財を成した実業家で、旧制中学を卒業するとケンブリッジ大学に留学しました。 お金には不自由せずに、当時の超高級車だっベントレー、ブガッティを所有し、週末はレースに熱中します。生涯の友ロバート C. ビンとベントレーで長い旅行にも出ました。一方、寄宿舎では英国流の紳士道を徹底的にたたきこまれます。Queen's Englishと英国流のマナー・着こなし・コミュニケーションを身につけます。
 昭和三年、家業が倒産したため帰国。翌年、樺山伯爵家の次女正子と結婚します。倒産の影響で、次郎の肩には十人以上の家族の生活がかかっていました。にもかかわらず、英字新聞の記者、英国商社、それから日本の貿易会社と、職業は安定しません。
 次郎は、吉田さんとの出会いについて語ります。「吉田さんの奥さんは牧野伸顕の娘さんで、僕の女房は、やはり鹿児島出身で樺山愛輔の娘です。そんな関係で牧野伸顕を知っておったから吉田さんも知っていたということです。まだ若くて、三十歳ちょっとくらいです。そのころ、私は日産コンツェルンの外国関係の責任者だったんです。吉田さんが英国の大使をしている時分(昭和11~13年)によくロンドンに行ったんです。」
 その後、吉田政権では、首相の側近として活躍します。昭和26年にサンフランシスコ講和条約が結ばれたときも主席全権顧問として立ち会う。何事にも原則をはっきりとさせ、それに基づいて発言したり行動しました。昭和二十六年から三十四年までは、東北電力会長として、戦後の電力再編に務めます。ヘルメットにサングラス、長靴で、みずからランドローバーを運転して、ダム工事現場をまわるような異色の会長でした。

 従来の秩序が崩壊、価値が転換している現在と未来のビジョンを実現する人物が望まれます。IT によって可能になった新しいビジネスモデルによって、従来では考えられなかったようなスピードで成長する現象が起きています。新しいビジネス大陸で、型にはまらない発想ができる新しい人間に活躍の場があります。スマートフォン、インターネットなどITを利用して、「マルチプル(乗数)経済とよばれるの経済大陸が出現しています。
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