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森英恵:ファッション


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 「品を大切にしなさい。人は品があることが大切。」 蝶のように優雅に舞った森英恵さんは、とスタップに言ってきました。夫の賢さんは、懐が深く、自分の意思で走り続ける森英恵さんを後押ししてくれる人で、良き理解者でした。 「やってみればいい。自分がやりたいと思う時が一番エネルギーのあるのだから。やりたいと思うエネルギーがクリエーターには最も大切だよ。」「あとはひき受けた。」

                   モリ・ハナエ

 森英恵さんは、パリのオートクチュールのデザイナーで、日本を代表するデザイナーの一人でした。森さんは着る人が輝くような服をつくり、そこには、日本人の美意識、愛情がつまっていました。
 
 森さんは、1951年にデザインの仕事を25才ではじめて、1997年からを2004年までハナエ・モリのオートクチュールのコレクションを発表してきました。93年には、皇太子ご成婚にあたり、雅子妃のウェディング・ドレスもデザインしました。彼女にとって、ブライダルドレスは、人生の大切な「とき」に着る一着。主役の花嫁が輝くようにデザインする仕事は楽しい。ブライダルドレスは白、アンティークレースのあるレスホワイト。女らしさを際ださせる上品で清楚な、華やかで着映えがするドレス。嫁ぐ花嫁の気持ちを表現するドレスは、花嫁の夢です。

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 引退した2004年秋冬コレクションで、私のコレクション作品の最後の1着となるブライダル・ドレスを着たのが、孫のモデル森泉です。メゾンのスタップの計らいで、”お嫁さん”のモデルになって、森泉は、最後のブライダルドレスを着ました。そして、ショーのフィナーレで、舞台裏にいたアトリエのスタッフもみんな表に出てきて、涙をうかべながら舞台を歩きました。最後のステージを飾ってくれたお気に入り、モデル達も涙を流していました。総立ちの拍手、ステージも観客も顔なじみばかり、照明、音楽、演出の信頼する仕事仲間の温かさ。そのときに、会場に流れてきた曲が森さんは、海外進出した1960年代前半にはやったボブ・ディランの「かぜにふかれて」でした。
http://www.youtube.com/watch?v=vWwgrjjIMXA
ボブ・ディランの「かぜにふかれて」

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森泉と一緒に。

 彼女の人生をまとめたもの「Good by bufferfly! 」 サヨナラ蝶が出版されました。初期に蝶のモチーフで有名になった為、永続的にブランドのシンボルとしています。東京時代、ニューヨーク時代、パリ時代についてファッション界での出来事をつづっています。目の前で展開される映画のシーンのように、自分もその場所にいるような、臨場感が溢れる書き方をしています。若い人、後世につたえたい思いから、あるデザイナーの人生が凝縮されている感じがします。

 オートクチュールは、高級な仕立て服、手仕事が前提のスーツやドレスです。熟練した職人の技を発揮して、デリケートなラインを出したり、立体的に微妙なフォルムを作ったり、ドレープや刺繍、キルティングといった繊細な装飾をほどこします。

 モデルさんが「ここにはいつも平和な雰囲気、静かで温かいからほっとする。」仕事場で森さんは声を荒げたことがないので、各チーフはどんなにたてこんでいても、落ち着いて働く。誰も怒鳴らないので、アトリエの職人もいつも変わらず笑顔で忙しく働いている。笑顔の職人たちが裁断して縫う服にメゾンの味、雰囲気が包まれる。働く人の品格がメゾンのたたずまいにもあらわれて、そのような雰囲気で丹精込めてつくった服には、愛情がつまっている。「品を大切にしなさい。人は品があることが大切。」ということが森さんのメゾンのモットーです。

 小沢征爾さんとも、パリでおしゃべりしていたことがありますけど、やっぱり「ルーツが大事なんだよね」って。若い人たちには、世界で仕事をするなら、まず自分が生まれて育った国のものを自分のものにしてから出て行くのがいい。日本の中でもがいても駄目。世界を舞台にしたファッション・デザインをしよう―。腹を決めた私は「日本」を勉強しました。日本の女である自分のアイデンティティーなしでは勝負できない。私の世界への挑戦は、和服の伝統を見つめ直すことから始まりました。


 モデル 松本弘子
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 松本弘子さは、彼女の生涯の友であり、とココ・シャネルは、彼女のファッション人生の起爆剤です。人生では、行き詰まりを感じたときに、次のステージの梯子が降りてきます。1961年、彼女にとっては、40日余りのパリ滞在が大きな転機となります。そこで、「着心地の良さ」にこだわりをもったココ・シャネルと出会いました。春夏コレクション・ウイークを直前に控えたオートクチュールの本場パリに来て、飛躍することができました。疲れ果てていた私の心に挑戦心が再び宿ったのです。

 1951年にデザインの仕事を25才ではじめて、1954年、59年にクチュリエ(主任デザイナ)ディオール、カピエールカルダンが来日して、本場のオートクチュールの仕事を近くで見ました。日本は貧しくファッションの仕事をする環境は整っておらずに、35歳になり、続けてきた仕事に行き詰まりを感じていました。

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松本弘子さんと一緒の森さん

 1961年1月、モデルの松本弘子さんと40日余りパリ旅行を行い、本場のコレクションを見て、女性デザイナーの存在意義を感得しました。弘子さんは、1960年日本人で初めてパリ・オートクチュール・コレクションのステージに立った日本人モデルの先駆者です。まっすぐな黒髪と瞳が印象的な個性ゆたかな女性でした。
 彼女は、彗星のようにあらわれた新進のピエールカルダンに見出されてパリコレのステージに立つ予定でした。感性が鋭く、日本人としての内面が充実していました。女性ならではの気品がただよう、服の表現につなげた「彼女の繊細な手の表情は、すばらしいね。(カルダン)」 

 英恵さんは、現地でいくつかのオートクチュールのショーを見学し、カンポン通りにあったココシャネルのサロンに行きます。ココシャネルの作品を目の当たりにして、「すばらしい」「これは着る服だ」「これは女性による、女性のための服」と感銘を受けしました。本物のシャネルスーツは、魅力的でした。爽やかな春夏の季節感を表す、テーマカラーはネイビーブルーで、大人の紺色、胸元の椿の造花、ウエストには金色のチェーンベルトに印象を受けます。ショーを見終わって、シャネルのスーツをオーダーすることになります。メゾンでの接客担当はココではなかったが、接客担当者から、ココが自分のまっすぐな黒髪を褒めていることを告げられるという貴重な体験もした。その後、メゾンでの何度かの仮縫い作業に立ち会ったのち、パリを離れる前日、大きな布張りの箱がホテルに届きました。ひざが隠れる長さの「シャネル丈」スカート、鮮やかなオレンジ色のブラウス…。内側から女性らしさがにじみ出る、まさに女を知り尽くした服でした。完成したスーツのあまりの素晴らしさに感銘を受け、デザイナーを続けることを決意しました。ココシャネルの細かいところまで、着心地の良さを追求する姿勢で、デザイナーの仕事の可能性を感じ取ります。心機一転、爽やかな感じで次のステージに向かうことになります。
そうして、森さんの思いのつまったコレクションができました。
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1963年にヴィヴィドを設立して「ハナエモリ」ブランドをスタートした。
1965年にNYにて初の海外コレクションを開催し、絹の素材を巧みに使い、
"East meets West"と称され、大成功をおさめ、NYにブティックもオープン。
1970年にはNYにブティックを設立するなど、まずアメリカにて成功をおさめる。
1972年にロンドンでの作品発表。
1975年にはモナコのケリー王妃に招かれ、モナコにてショーを開催、、
1976年にはパリにオートクチュールメゾンを作り、オートクチュールにも参加。
1977年には東洋人としてははじめて、パリオートクチュール組合に加入。
1980年代は、オペラやバレエ・ミュージカルなどの舞台衣装も数多くてがける。


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