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「バタフライ効果」世界を動かす力


「バタフライ効果」  弓場隆 訳

 この本は、中学、高校生向けの本です。アイオワ州といえば、とうもろこし畑が永遠に広がる農業州です。そこで、育ったヘンリー・ウォレスとボーローグは、不思議な運命の糸で結ばれます。穀物の品種改良で20億人を飢餓から救ったとしてノーベル賞を受賞したノーマン・ボーローグから始め、彼を起用したヘンリー・ウォレス等、影響を与えた人物たちをさかのぼっていく物語を通して、一人ひとりの小さな行動が、世界に大きな影響を与えることを説きます。いろんな人が繋がって、一つの大きな事業が成し遂げられます。

 リビアなどの民主化運動でも、不屈な闘志をもった人の小さな運動が社会を揺り動かす運動に発展していきます。


 カオス理論で、初期値に対する非線形のダイナミクスの例(ローレンツ)

 マサチューセッツ工科大学の気象学者エドワード・ローレンツは、1972年にアメリカ科学振興協会で講演『予測可能性-ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか』を行いました。「バタフライ効果」は、蝶が羽を動かすと、空気の中の微粒子を動かし、それがほかの微粒子を動かし、さらに多くの微粒子を動かす。地球の反対側で竜巻を発生させるというものです。

 バタフライ効果は、初期条件のわずかな差が時間とともに拡大して、結果に大きな違いをもたらすことです。人間の一つひとつの小さな行為でも、「バタフライ効果」のように、小さな波が増幅されて、いずれ世界を大きく動かしてゆく潮流をことができるということです。個人の行動が世界を変える可能性がありますが、予測不可能な世界に住んでいることになります。バタフライ効果によりひとりの行為が、いくつか、連携して、世界を変えた人の話があります。


<ノーマン・ボーローグ> 緑の革命で食糧難を救った人
 一人ひとりの小さな行動が、世界に大きな影響を与えるという表現では、語れない位の情熱家、ファイターです。ノーマン・ボーローグは、アイオワ生まれです。アイオワ州は、長年にわたって、川によってつくられた肥沃で平坦な土地と豊かな水源を生かした,農業が盛んな州です。産業といえば農業しか考えられないほど農業一色といった感じの州です。

  ノーマン・ボーローグは、アメリカの農業学者で、「高収量小麦」の改良と普及により、世界の食糧不足の改善に尽くしたとして、1970年にボーローグにノーベル平和賞を受賞しました。博士は、「食糧の不足は人間の尊厳そのものを損なう」とよく口にされたそうです。穀物を多収穫にしようとすると、穂の重さにより倒れやすくなる課題がありました。そこで、日本の「麦農林10号」を親に用いて背の低い丈夫な麦を作り、それがきっかけで米やその他の穀物の「奇跡の品種」が生まれるキッカケになりました。博士は、メキシコを初めアジア、パキスタン、インド、アフリカと世界の大陸と普及に尽力したそうです。

“現場”でのたゆまぬ品種改良努力の結果うみだされた“奇跡の小麦”(小麦さび病に強く、矮性かつ早生で、高収量の小麦)を武器に、まずはラテンアメリカで、次いでインド亜大陸で、さらにアフリカで中国で、次々と引き起こされた“緑の革命”の中心人物となり、飢餓に苦しむ数億人の人々を救いました。

 当時71歳だった博士は、日本財団によって設立された笹川アフリカ協会会長も務められて、協会によるアフリカ食糧増産プロジェクトにも参加されたそうです。当時、世界銀行や国際機関などは「アフリカで食糧自給は無理」と冷ややかな目でこの事業を見ていましたが、博士の経験に裏打ちされた広く深い学識と人間味あふれる指導力のおかげで、伝統的な農法と比較し収穫量が2~4倍になるなど、着実に実績を重ねていきました。徹底した現場主義で、ボーローグは朝から日没まで農場で研究し続けた。

<ヘンリー・A・ウォレス>  、「メキシコ農業支援プログラム」にボーローグを起用しました。

 アイオワ州アデール郡オリエントの近くの農場に生まれる。1910年にエームズのアイオワ州立大学を卒業し、た。彼はトウモロコシの高収量品種の実験を行い、農業に関する著書を多数出版した。1915年には市場における第一の品種となるトウモロコシを考案し、彼が設立した会社は現在、デュポンのパイオニア・ハイブリッド部門である。これは、アメリカに於いて最も高収益を誇り、彼は、国際的に重要な農業企業を創ることに貢献した。

 1933年、ヘンリー・A・ウォレスが農務長官としてワシントンに行き、新しい農業政策のための基本立案者として働いた。ウォレスは中西部で指導的な農業誌「ウォレスズ・ファーマー」の元編集者であり、農産物生産量を削減しさえすれば、農業に繁栄が戻ってくると信じた。さらに、農夫達は農業用地を生産調整し、それに対して補償されるべきと考えた。この2つの原則が1933年に成立した農業調整法に盛り込まれた。

 彼は1940年9月まで農務長官を務め、副大統領の指名を受け農務長官を辞任した。彼は1941年1月20日から1945年1月20日まで副大統領職を務めた。1940年、FDRルーズベルト政権の副大統領となった直後、ヘンリー・ウォレスは公務でメキシコを訪れた。メキシコ農民の苦境に心動かされたウォレスは、アメリカに戻ったあと、ロックフェラー財団に連絡をとり、メキシコのトウモロコシと小麦の収量を向上させることを目的として現地と共同作業ができないかどうか検討するように依頼した。ボーローグがアイオワ州立大学で予算化した研究で植物遺伝学の研究を始め、メキシコにおける米の品種を改良させ、これがヘンリー・A・ウォレスの仕事から出てきたことは注目に値する。1943年に、「メキシコ農業支援プログラム」が発足した。


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